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松尾芭蕉と庄内

 
【はじめに】

 『月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也』から始まる「奥の細道」は、紀行文学の最高傑作である。
 私と芭蕉文学との出会いは、お恥ずかしいことながら遅い時期の、昭和25年(1950年)高校1年生の時である。戦時中は国威昂揚のための教科書が主流で、日本文学とは縁が遠かったように思うが、新しく六・三・三制の教育制度が実施され、民主主義が徐々に浸透しつつある時に、「奥の細道」が国語の教科書に採用されたのである。松尾芭蕉との出会いは、教科書を開くことから始まった。
今でも「月日は百代の過客にして…」と口ずさむことがあるが、この古典文学は、荒廃していた日本人の心に安らぎを与え、日本の未来へ希望を与えてくれた。そして今また、庄内地方の文化の底流に、松尾芭蕉の影響が燦然と輝いていることに気が付いたのである。

 
山寺の景観
↑山寺の景観
 松尾芭蕉と曽良が旅した「奥の細道」の目的は定かではない。だが、単なる観光旅行ではないようだ。交通機関が整備された現代とは違い、困難が伴う旅の連続である。西行法師の歌枕を訪ねたという説や、源義経の足跡を辿ったという説がある。また、芭蕉は隠密であったと言う意外な説もあるようだ。だが、やはり新しい俳風を求めて、未知の国「みちのく」へ旅をしたものと考えたい。松尾芭蕉と曽良の主従が、「みちのく」を訪ねてから既に300年の歳月が流れ、往時を正確に辿ることは難しい。46歳の芭蕉が、江戸深川から岐阜大垣までの150日間 2,400kmの旅をした見聞録は、読んでいて心をワクワクさせるものがある。東北地方に中央の文化を伝え、江戸の人々に、未知の世界であった東北の文化や産物を紹介した功績は、東北地方の発展に大きく貢献している。
松尾芭蕉は、今日の山形県に大きな影響を及ぼしている、偉大な先人であると思っている。
 山形県は農業王国である。近年は企業誘致により、電子機器部品や機械工業が発達した。だが、自然と歴史と文化の大きな遺産を持つ山形県は、観光事業の開発が21世紀の大きな課題であろう。即ち「農業と工業と観光」の3本の事業が柱になって、21世紀の山形県における産業発展の要となり、県民の生活をより豊かにすると思うからである。
山形県の観光に一番寄与しているのは「松尾芭蕉」である。なぜなら山形県を代表する観光名所の「山寺=立石寺」と「最上川舟下り」が、松尾芭蕉が残した「名句」により、全国から旅人を山形県に導いているからである。
『閑さや岩にしみ入蝉の声』『さみだれをあつめて早し最上川』の名句を知ることにより、山形県を訪ねる旅人が、多くなっていると思うからである。
山寺 奥の細道 標柱
↑山寺 奥の細道 標柱
【宮城から山形へ】

 松尾芭蕉と弟子の曽良は、江戸深川を立ち、日光・那須・白河・仙台・松島・平泉を経て、宮城県鳴子温泉に近い「尿前の関」から山形県に向かっている。最上町堺田が県内最初の宿泊地であり、宿を借りた「封人(ほうじん)の家」で詠んだ俳句が『蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(バリ)する枕もと』というユーモア溢れる傑作の句である。
芭蕉主従は、堺田から山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えて尾花沢に向かう。尾花沢では土地の俳人たちと俳諧に興じ楽しんだようである。尾花沢の豪商で俳人の鈴木清風の勧めで「山寺=立石寺」に参詣をすることになり、芭蕉主従は山寺に向かう。初夏の山寺では有名な『閑さや岩にしみ入蝉の声』の名句を詠んだ。

 
封人の家
↑封人の家
 山寺からは来た道を引き返し、大石田に立ち寄って交友を温め、大石田からは川船を利用して旅を続けている。その後陸路を辿り、新庄に行く途中に猿羽根峠(さばねとうげ)という難所があって、芭蕉主従が通った形跡がある。峠の頂きに地蔵堂があって、最上川を見下ろす眺めが素晴らしい。猿羽根峠は、山形県が生んだ歌聖 斎藤茂吉が、好んで足を運んだ場所である。茂吉の最後の歌集「白き山」の中に『元禄のときの山道も最上川ここに見さけておどろきけむか』の一首があり、松尾芭蕉がこの峠を越えた足跡を偲んでいる。
新庄では、俳人たちと俳諧を楽しみ親交を深めている。そして、多くの友人に見送られながら「本合海」の船着場から「庄内」へと向かうことになる。
猿羽根峠 標柱
猿羽根峠 道標
 このご案内は、「庄内での芭蕉の足跡」に焦点を当てながら、現代との関わり合いを探ってみることにしている。なぜなら、山形県内を流れる母なる川=「最上川」の名前を知ったのは『さみだれをあつめて早し最上川』の名句に出会ってからである。また、芭蕉が詠んだ句の中に「羽黒山」・「月山」・「湯殿山」・「最上川」などの大自然や、「初茄子」・「真桑瓜」など、庄内の旬の食べ物が登場するのは、松尾芭蕉が「庄内地方」を魅力ある国として、全国に伝えようとしているように思えるからである。
【芭蕉主従 庄内へ向かう】

 庄内へ向かうには、「本合海(もとあいかい)」から川船に乗ることから始まる。陸路のない時代に、内陸と庄内を結ぶ最上川船運の重要な中継点として栄えたのが本合海である。今は「本合海大橋」が建設されて陸路を結んでいるが、当時は貴重な交通手段であった。
元禄2年(1689年)6月3日、本合海の船着場から芭蕉主従は川船に乗って庄内へ向かう。舟着場跡には「史蹟芭蕉乗船の地」の標柱と句碑と芭蕉主従の像がある。句碑の横から、少し岸辺まで下ると小さな船着場があり、小舟が一艘波に揺れながら繋がれていた。

本合海乗船の地 芭蕉主従の像
↑本合海 乗船の地 芭蕉主従の像
 本合海大橋が出来るまでは、庄内地方へ向かう川船の便のほかに、対岸に行く渡し舟があったという。最上川の流れは、船着場付近から大きく左へカーブしている。背景に聳える八向山と川のせせらぎ、本合海大橋が、良く調和して景観を作り出している。岸辺に立ってしばらく川の流れに身を任せてみる。水音に耳を傾け、景観をボンヤリと眺めていると一人の老人に出会った。川岸に繋留してあった小舟の綱を解き、エンジンを掛け始めた。声をかけてみる。対岸には老人の所有する畑があって、農作業のために小舟で渡るという。小春日和の秋の日に、久しぶりに味わう長閑なひとときである。
本合海船着場
↑本合海船着場
 芭蕉主従は、初夏の緑の風が爽やかな季節に、水かさの多い最上川を下った。流れは早かったと思うが、強行軍が続いた陸路の旅から、ゆったりと寛げる船上では、長閑な気分に浸り、最上峡の景観を堪能したに違いない。今は古口から草薙温泉まで、約1時間の船旅を、最上峡芭蕉ライン観光が「最上川舟下り」として運航している。船内では、船頭さんのユーモア溢れるスポットの案内と、「最上川舟唄」や「真室川音頭」の民謡を、美声で唄い上げる長閑な光景が展開する。日本人ならではの感傷が胸にうずき、旅人の心に懐かしい故郷を思い出させる情緒のようなものが沁み込んでくる。芭蕉主従にも聞いてもらえればどんなに喜ばれるだろうかと、フト思いを巡らしてみる。
最上川にも最近はカヌーやイカダが浮かぶようになった。現在のスポーツとしてのイカダと、物資を運んだ頃の「筏」を見て、芭蕉はどんな名句を詠むのだろうか。
最上川舟下りと白糸の滝
↑最上川舟下りと白糸の滝
 最上川を下った芭蕉主従は、清川関所の船着場で川船を降りたと伝えられている。船着場跡には「奥の細道 芭蕉上陸の地」という標柱と記念碑に像がある。書類の不備で清川関所には上陸をすることが出来ず、狩川あたりで上陸をしたという説もあるが定かではない。船着場跡の近くに「清河神社」がある。明治維新の風雲を起こした文武兼備の英士 清河八郎が祭られている社である。「清河八郎記念館」には、新しい日本を夢見て改革を唱え、江戸から明治へ変遷する激動期に活躍した若者の決断を垣間見ることが出来る。
清川からは陸路を辿り、狩川から添川を経て、羽黒山の門前町である手向(とうげ)へと向かう。手向では染物師で俳人の 近藤左吉(呂丸)を訪ねている。
庄内上陸の地 清川関所跡
↑庄内上陸の地 清川関所跡
【羽黒山から月山・湯殿山へ】

 羽黒山山門の付近一帯は手向という集落である。今は出羽三山や松尾芭蕉ゆかりの土産品などを売る商店が賑やかに並んでいる。手向で芭蕉主従を迎えた呂丸は、羽黒山内に入り南谷別院に案内する。羽黒山山門から「国宝=羽黒山五重塔」へと向かう。谷へ下る道を行くと小さな朱塗りの橋があり、右手に小滝が勇ましい音を響かせて落下するのが見える。小川は早瀬になって、心地良い水音を立てながら流れている。鬱蒼とした杉の大木が聳える森の中を行くと、樹齢千年の「爺杉」があり、羽黒山五重塔が見えてくる。約1060年前に平将門が建立したと伝えられている国宝の建造物である。長い歴史の中を風雪に耐えながら、神々しさと威厳さを保ち、参拝する人々を圧倒する。五重塔から山道をしばらく登り、一の坂・二の坂を過ぎると「南谷別院跡」に着く。芭蕉主従は湯殿山からの帰りの2泊を含めて、計6日間を南谷別館で逗留した。

羽黒山五重塔
羽黒山五重塔
 羽黒山山頂には『有難や雪をかほらす南谷』という句碑と芭蕉・曽良主従の像がある。
翌6月4日に羽黒山本坊若王寺で句会を開いた時に、心のふれあいに感銘して詠んだ句と言われている。出羽三山と呼ばれている「羽黒山」・「月山」・「湯殿山」の三山は、東北修験道の大本山として隆盛を極めていた時代である。庄内地方は山岳信仰の厚い土地柄でもある。 芭蕉主従は、6月5日羽黒権現を参詣し、翌6月6日には白装束姿で月山と湯殿山に向う。
羽黒山山頂 芭蕉の像
↑羽黒山山頂 芭蕉の像
 月山(1984m)は、芭蕉の旅では最も高い山である。山頂には「月山神社」があり、参詣をした日は頂上近くにある角兵衛小屋で一泊した。羽黒山から月山までの山道を歩くのはタフな道程であったと思うが、今では舗装された月山高原ラインが利用出来るので便利になった。車で月山八合目まで行けるが、途中にある月山高原牧場で、ひととき寛ぐのも良いプランだと思う。仰ぎ見る雄大な月山連山の眺めと、広大な牧場に放牧された牛の群れが、長閑に遊んでいる風景を見ていると心が癒される。殺伐とした都会の生活に浸かった旅人の、鋭気を養うには絶好のゾーンである。月山は春スキーのメッカとしても有名で、5月の連休には全国から若者が集まって来る。また、夏山登山としても人気が高い。
松尾芭蕉は月山にちなんだ名句を詠んでいる。『雲の峯幾つ崩れて月の山』である。
月山高原牧場
↑月山高原牧場
 翌6月7日 月山山頂で朝を迎えた芭蕉主従は、湯殿山(1504m)に向かう。湯殿山に因んだ名句に『語られぬ湯殿にぬらす袂かな』がある。
月山から湯殿山への登山コースは、初夏から秋に掛けて登山客で賑わう人気コースである。「湯殿山神社」の御神体は、巨大な茶褐色の岩石で、温泉が巨岩を濡らし、いつも湯気が上がっている。御神体の巨岩には写真を向けることが禁じられているので、湯殿山神社の御神体の写真がない。御神体がある場所より少し山道を下ったところに、朱塗りの大鳥居があり、大鳥居の写真が「湯殿山神社」を紹介している。
湯殿山神社 大鳥居
↑湯殿山神社 大鳥居
 現在でも多くの信者が敬虔な思いで「羽黒山」・「月山」・「湯殿山」の三山を巡礼している。だが、冬季は積雪が多いので、「月山」と「湯殿山」には常時参詣することは難しい。
そこで、羽黒山山頂に「月山」「湯殿山」「羽黒山」の三神を祀る「出羽三山神社(三神合祭殿)」がある。信仰の厚い信者のために、出羽三山神社に行けば一年中いつでも「三神」を参詣することが出来るように配慮した社である。
出羽三山神社の境内に「出羽三山歴史博物館」がある。出羽三山の資料や境内にある「鏡池」から出土した「古鏡」や、松尾芭蕉直筆の追悼句文などが展示されている。 
出羽三山神社
↑出羽三山神社
 出羽三山神社から、少し山道を下ったところに羽黒山参籠所「斎館」がある。参拝客の宿泊所であり、精進料理が戴ける食事処でもある。出羽三山山麓で採れた旬の山菜や筍を主な素材にして作られる「御本坊芭蕉膳」は、芭蕉と曽良が食事をしたと言われる究極の精進料理である。予約(0235-62-2357)をすれば、賞味することが出来る。
斎館の精進料理
羽黒町商工会議所ホームページより
↑斎館の精進料理
【羽黒から鶴岡へ】

 6月10日、芭蕉主従は羽黒山から鶴岡に向かう。羽黒山大鳥居をくぐり城下町鶴岡に入る。鶴岡では、江戸在勤中に深川の芭蕉庵に通っていた酒井家家臣 長山重行を訪ねて3日間逗留した。句会で庄内地方特産の小粒で美味しい「民田茄子」が出た。その時に詠んだのが『めづらしや 山を出(い)で羽(は)の 初茄子(はつなすび)』の名句である。 
鶴岡では、芭蕉が体調を崩し歌仙を十分に開くことが出来なかったので、鶴岡での作品が少ないのが残念である。旧長山邸の跡地には「芭蕉滞留の碑」はあるが屋敷は今はない。近くにある山王日枝神社の境内に弁天様が祭ってあって、その横に『めずらしや山を出で羽の初茄子』の句碑がある。

山王日枝神社
山王日枝神社
【鶴岡から酒田へ】

 長山邸の近くに酒田へ向かう船着場があった。内川に架かる大泉橋の袂に「奥の細道乗船地跡」の標柱が立っている。鶴岡市の市街地を蛇行しながら流れる内川は、庄内藩の居城「鶴ケ岡城」を囲む外濠の役目を果たしているが、物資や人を運ぶ運河の役割もしていた。内川は美しい川である。今は水量が少なく浅瀬に水鳥が羽根を休めている光景が見られるが、当時は水かさが多く、川船の交通手段が盛んであったと思われる。大泉橋から上流にある三雪橋までは、「川の流れ」と「橋」と「川岸」の風景が、庄内らしい情緒を漂わせ、歴史の流れを感じさせる憩いのゾーンである。
藤沢周平の傑作「秘太刀馬の骨」では、内川は「五間川」として描かれ、大泉橋を「千鳥橋」と呼んでいる。「五間川はちょうどそこでゆるやかに東に向きを変えているのだが、曲り切ったところに南から北にかかる千鳥橋の北袂には、橋下の船着場を照らす常夜燈がある。三人はその光をはばかったのである。」という一節があるが、「庄内」らしさ感じさせる、見事な表現である。

酒田へ向う船着場 大泉橋
↑酒田へ向う船着場 大泉橋
 芭蕉主従は、大泉橋の袂にある船着場から川船に乗り、内川、赤川、最上川を下り酒田に向かう。当時の赤川と最上川は水路として繋がっていたが、雨季の洪水を避けるため、今ではそれぞれの川が日本海に注ぎ、川船を利用して酒田に行くことが出来なくなった。
酒田では長山重行から渡された紹介状にある 伊東玄順(俳号=不玉)を訪ねた。酒田は最上川の上流から運ばれてくるコメや紅花などの集荷地であり、河村瑞賢が開いた大阪から瀬戸内海を経由する「西廻り航路」の重要港として栄えていた時代である。酒田市内にある日和山公園には、西行や西鶴も訪れたように多くの文人の碑がある。全国から文人や、海運を利用する豪商が「文化や物資」を流入させ、繁栄を続けていた「港町=酒田」に、芭蕉は大きな魅力を感じていたに違いない。
酒田港を見下ろす桜の名所「日和山公園」に、芭蕉の像と酒田で詠んだ句碑がある。『暑き日を海に入れたり最上川』である。
日和山公園 芭蕉の像
↑日和山公園 芭蕉の像
 酒田では伊東玄順宅に逗留した。酒田で舟遊びをしたり、吹浦や象潟を訪ねたのちに歌仙の編纂を行っている。吹浦(ふくら)は、秋田県象潟町と山形県の県境にある遊佐町の集落で、鳥海山(2236m)の麓にある港町である。吹浦港は今でも規模の小さい漁港として活躍している。イカ釣船が繋留している風景は、昔から変わらぬ情緒ある漁村の姿なのかも知れない。
伊東玄順と小舟で納涼をした時の立句が『あつみ山や吹浦かけて夕すずみ』である。温海岳から吹浦にかけての景観と涼風に感動して詠んだ、スケールの大きな俳句である。
伊東玄順(不玉)宅では3日間句会を楽しんだ。不玉宅の屋敷は今はないが酒田市役所の近くに「奥の細道 不玉宅跡」の標柱がある。玄順(不玉)など酒田の俳人との句会で、涼しげな瓜が出された時に詠んだのが、『初真桑(はつまくわ)四(よつ)にや断(きら)ん輪に切ん(きらん)』である。酒田では近江屋三郎兵衛宅などでも句会を催し、大いに交友を温め楽しんだようである。
吹浦港
↑吹浦港
【酒田から越後路へ】

 芭蕉主従は象潟まで訪ね、なぜ秋田には行かなかったのか不思議である。旅の後半の予定が庄内から越後路、そして、金沢・福井・敦賀・大垣の北陸路であり、行動計画が大幅に遅れていたからかも知れない。芭蕉が更に北に行き「善知鳥(うとう)」を見たいという希望を曽良が止めたのは、芭蕉の健康に気遣ってのことであり、秋田行きを断念した理由であったと推測される。
酒田からは日本海の景色を眺めながら、越後路・北陸路へと向かう。途中大山で一泊し、更に温海の鈴木惣右衛門宅で一泊した。だが、芭蕉の健康がすぐれていなかったのか、句会を開いた形跡がないのが残念である。日本海の沿岸が美しい国道7号線際に「塩俵岩」という奇岩が目を惹くドライブインがある。その一角に松尾芭蕉の句碑がある。酒田にいた時に詠んだ『あつみ山や吹浦かけて夕すずみ』の名句であり、海岸線に奇岩が並ぶ景勝の地に句碑が立てられている。マリンブルーの海と、空の果てしないスカイブルーの雄大な景観に、芭蕉はしばし見とれて休息をとったように思えてくる。
芭蕉は温海からは馬に乗って、景観をのんびりと楽しみながら越後路に向かった。曽良は温海では芭蕉とは別行動をとり、湯温海を見物してから芭蕉の後を追いかけたようである。 
やがて越後路に入り、詠んだ名句が『荒海や佐渡によこたふ天河』である。

伊東玄順宅跡 標柱
↑伊東玄順宅跡 標柱
【おわりに】

 現在「最上川舟下り」や「山寺=立石寺」を楽しむ数多くの観光客は、松尾芭蕉の名句に惹かれて来る人が多い。また、松尾芭蕉が、羽黒や鶴岡・酒田の文化人と交友を深め意見を交換したことは、現在の庄内地方の文化に大きく貢献していると思っている。現在多くの観光客を「庄内」に導いているのは、偉大な旅人=松尾芭蕉のお陰である。松尾芭蕉は「庄内地方」にとっての大恩人なのである。

伊東玄順宅跡 標柱
↑温海 塩俵岩

 
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