『月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也』から始まる「奥の細道」は、紀行文学の最高傑作である。 私と芭蕉文学との出会いは、お恥ずかしいことながら遅い時期の、昭和25年(1950年)高校1年生の時である。戦時中は国威昂揚のための教科書が主流で、日本文学とは縁が遠かったように思うが、新しく六・三・三制の教育制度が実施され、民主主義が徐々に浸透しつつある時に、「奥の細道」が国語の教科書に採用されたのである。松尾芭蕉との出会いは、教科書を開くことから始まった。 今でも「月日は百代の過客にして…」と口ずさむことがあるが、この古典文学は、荒廃していた日本人の心に安らぎを与え、日本の未来へ希望を与えてくれた。そして今また、庄内地方の文化の底流に、松尾芭蕉の影響が燦然と輝いていることに気が付いたのである。
松尾芭蕉と弟子の曽良は、江戸深川を立ち、日光・那須・白河・仙台・松島・平泉を経て、宮城県鳴子温泉に近い「尿前の関」から山形県に向かっている。最上町堺田が県内最初の宿泊地であり、宿を借りた「封人(ほうじん)の家」で詠んだ俳句が『蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(バリ)する枕もと』というユーモア溢れる傑作の句である。 芭蕉主従は、堺田から山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えて尾花沢に向かう。尾花沢では土地の俳人たちと俳諧に興じ楽しんだようである。尾花沢の豪商で俳人の鈴木清風の勧めで「山寺=立石寺」に参詣をすることになり、芭蕉主従は山寺に向かう。初夏の山寺では有名な『閑さや岩にしみ入蝉の声』の名句を詠んだ。
庄内へ向かうには、「本合海(もとあいかい)」から川船に乗ることから始まる。陸路のない時代に、内陸と庄内を結ぶ最上川船運の重要な中継点として栄えたのが本合海である。今は「本合海大橋」が建設されて陸路を結んでいるが、当時は貴重な交通手段であった。 元禄2年(1689年)6月3日、本合海の船着場から芭蕉主従は川船に乗って庄内へ向かう。舟着場跡には「史蹟芭蕉乗船の地」の標柱と句碑と芭蕉主従の像がある。句碑の横から、少し岸辺まで下ると小さな船着場があり、小舟が一艘波に揺れながら繋がれていた。
羽黒山山門の付近一帯は手向という集落である。今は出羽三山や松尾芭蕉ゆかりの土産品などを売る商店が賑やかに並んでいる。手向で芭蕉主従を迎えた呂丸は、羽黒山内に入り南谷別院に案内する。羽黒山山門から「国宝=羽黒山五重塔」へと向かう。谷へ下る道を行くと小さな朱塗りの橋があり、右手に小滝が勇ましい音を響かせて落下するのが見える。小川は早瀬になって、心地良い水音を立てながら流れている。鬱蒼とした杉の大木が聳える森の中を行くと、樹齢千年の「爺杉」があり、羽黒山五重塔が見えてくる。約1060年前に平将門が建立したと伝えられている国宝の建造物である。長い歴史の中を風雪に耐えながら、神々しさと威厳さを保ち、参拝する人々を圧倒する。五重塔から山道をしばらく登り、一の坂・二の坂を過ぎると「南谷別院跡」に着く。芭蕉主従は湯殿山からの帰りの2泊を含めて、計6日間を南谷別館で逗留した。
6月10日、芭蕉主従は羽黒山から鶴岡に向かう。羽黒山大鳥居をくぐり城下町鶴岡に入る。鶴岡では、江戸在勤中に深川の芭蕉庵に通っていた酒井家家臣 長山重行を訪ねて3日間逗留した。句会で庄内地方特産の小粒で美味しい「民田茄子」が出た。その時に詠んだのが『めづらしや 山を出(い)で羽(は)の 初茄子(はつなすび)』の名句である。 鶴岡では、芭蕉が体調を崩し歌仙を十分に開くことが出来なかったので、鶴岡での作品が少ないのが残念である。旧長山邸の跡地には「芭蕉滞留の碑」はあるが屋敷は今はない。近くにある山王日枝神社の境内に弁天様が祭ってあって、その横に『めずらしや山を出で羽の初茄子』の句碑がある。
長山邸の近くに酒田へ向かう船着場があった。内川に架かる大泉橋の袂に「奥の細道乗船地跡」の標柱が立っている。鶴岡市の市街地を蛇行しながら流れる内川は、庄内藩の居城「鶴ケ岡城」を囲む外濠の役目を果たしているが、物資や人を運ぶ運河の役割もしていた。内川は美しい川である。今は水量が少なく浅瀬に水鳥が羽根を休めている光景が見られるが、当時は水かさが多く、川船の交通手段が盛んであったと思われる。大泉橋から上流にある三雪橋までは、「川の流れ」と「橋」と「川岸」の風景が、庄内らしい情緒を漂わせ、歴史の流れを感じさせる憩いのゾーンである。 藤沢周平の傑作「秘太刀馬の骨」では、内川は「五間川」として描かれ、大泉橋を「千鳥橋」と呼んでいる。「五間川はちょうどそこでゆるやかに東に向きを変えているのだが、曲り切ったところに南から北にかかる千鳥橋の北袂には、橋下の船着場を照らす常夜燈がある。三人はその光をはばかったのである。」という一節があるが、「庄内」らしさ感じさせる、見事な表現である。
芭蕉主従は象潟まで訪ね、なぜ秋田には行かなかったのか不思議である。旅の後半の予定が庄内から越後路、そして、金沢・福井・敦賀・大垣の北陸路であり、行動計画が大幅に遅れていたからかも知れない。芭蕉が更に北に行き「善知鳥(うとう)」を見たいという希望を曽良が止めたのは、芭蕉の健康に気遣ってのことであり、秋田行きを断念した理由であったと推測される。 酒田からは日本海の景色を眺めながら、越後路・北陸路へと向かう。途中大山で一泊し、更に温海の鈴木惣右衛門宅で一泊した。だが、芭蕉の健康がすぐれていなかったのか、句会を開いた形跡がないのが残念である。日本海の沿岸が美しい国道7号線際に「塩俵岩」という奇岩が目を惹くドライブインがある。その一角に松尾芭蕉の句碑がある。酒田にいた時に詠んだ『あつみ山や吹浦かけて夕すずみ』の名句であり、海岸線に奇岩が並ぶ景勝の地に句碑が立てられている。マリンブルーの海と、空の果てしないスカイブルーの雄大な景観に、芭蕉はしばし見とれて休息をとったように思えてくる。 芭蕉は温海からは馬に乗って、景観をのんびりと楽しみながら越後路に向かった。曽良は温海では芭蕉とは別行動をとり、湯温海を見物してから芭蕉の後を追いかけたようである。 やがて越後路に入り、詠んだ名句が『荒海や佐渡によこたふ天河』である。
現在「最上川舟下り」や「山寺=立石寺」を楽しむ数多くの観光客は、松尾芭蕉の名句に惹かれて来る人が多い。また、松尾芭蕉が、羽黒や鶴岡・酒田の文化人と交友を深め意見を交換したことは、現在の庄内地方の文化に大きく貢献していると思っている。現在多くの観光客を「庄内」に導いているのは、偉大な旅人=松尾芭蕉のお陰である。松尾芭蕉は「庄内地方」にとっての大恩人なのである。