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藤澤周平の世界 海坂藩と庄内を訪ねて 
 
 藤沢周平の作品には幅広い年令層のファンがいる。特に日本経済の発展を担い、定年退職後静かな余生を送る高年齢者層からは絶大の支持を受けている。作品は庄内藩をモデルにしたと言われる「海坂藩」の出来事が多いが、その背景には「山」と「川」そして「郷土」が土台にある。こまやかな人情の機微に「霧」や「光」・「北風」・「蝉の鳴き声」といった自然のありさまを捉えた光景は、海坂藩がある庄内地方特有の風土なのである。藤沢周平の作品は、日本人の心に問い掛ける優しさがある。郷土を愛し、人を愛する作風の藤沢文学が、多くの人から絶大な人気を博しているのは、当然のことなのかも知れない。
 

 
土俵の残る黄金小学校
↑土俵のある黄金小学校
 企業戦士は、お家騒動に巻き込まれたり、人間関係の難しさ、上下関係のしがらみから止む無く行動をしたりと苦い経験がある。退職後一息入れた晩年に、過去を回想してみると、藤沢作品の中の展開が、我が身とオーバーラップをするところがある。藤沢周平の世界に浸るのは、現実と似通った作品の中の主人公と、同じ境遇の人生を送って来た自分とに、類似点があることに気が付くからである。
 
藤沢周平とその作品 ゆかりの地図
鶴岡書店ホームページより
 藤沢周平は、昭和2年12月26日(1927年)山形県東田川郡黄金村大字高坂に生まれた。青龍寺尋常小学校(現黄金小学校)の頃は、故郷の大自然に触れ、近くの小川で泳ぎ,魚を捕らえ、田圃の手伝いをして、感性豊かに過ごしたようである。
昭和24年(22才)山形師範学校を卒業し、郷里の湯田川中学校に赴任した。国語と社会を担当し、2年間の教員生活を経験したことがある。昭和46年「溟い海(くらいうみ)」でオール読物新人賞を受賞したのを皮切りに作家生活に入り、昭和48年(46才)の時に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した。その後は精力的な執筆活動を続け、多くの作品を残している。平成9年1月26日(1997年)69才で永眠した。
鶴岡市では、藤沢周平の作品にゆかりのある地に標柱を立てた。その数は18カ所ある。私は「海坂藩」の面影と「庄内」の風土を考えながら、標柱のある場所を訪ねてみた。

 
湯田川温泉
鶴岡市のホームページより
↑湯田川温泉
 

【探訪コース】
(1)金峯山 ― (2)高坂 ― (3)民田 ― (4)湯田川温泉 ― (5)井岡寺 ― (6)小真木(日枝) ― (7)内川(筬橋) ― (8)総穏寺 ― (9)大督寺 ― (10)本町二丁目(七日町) ― (11)旧藩校致道館 ― (12)鶴岡公園 ― (13)家中新町 ― (14)内川(三雪橋) ― (15)大泉橋 ― (16)龍覚寺 ― (17)般若寺 ― (18)善寶寺 ― 坂本屋 
 
(1)「金峯山」は、作品「臍曲がり新左」の中では「伊吹山」のことである。標高は460mのさほど高い山ではないが、展望が素晴らしく「国指定名勝地」になっている。山頂近くが急峻なため、天候の変化が激しく、霧が掛かりやすい山である。金峯山の麓には、大きな川の赤川と支流の青龍寺川などがあり、田圃が限りなく広がっている。金峯山登山口から、狭く曲がりくねった山道を2.5kmほど登ると、金峯神社と金峯山博物館がある。藤沢周平ゆかりの地=標柱ナンバー1は、金峯神社の境内にあった。  
 
金峰山
↑金峰山を臨む
(2)「高坂」は、藤沢周平の郷里で、金峯山の麓にある現存する集落である。作品「三月の鮠(はや)」では、窪井信次郎魚釣りを終え、鬱蒼とした森の中へ進むと、村の鎮守の「山王社」に着く。そこで、運命的な「三月の鮠」のように凛々しい葉津に出会うのである。
 幼い頃に学んだ郷里の「黄金小学校」には、今でも土俵があって、昔のことが懐かしく蘇ってくる。それは、戦前の東京の学校にも土俵があったからである。小学校のすぐそばに金峯山登山口があり、近くには小川が流れ、田圃が広がっている。藤沢周平は恵まれた自然の環境の中で、自由奔放に遊んだ郷土の風景を、作品の中で描いているのが良くわかる。

 
↑魚釣りをしたであろう小川
(3)「民田」は、作品「ただ一撃」の中に出てくる現存する集落である。高坂の隣り村で、ここで栽培する「茄子」は小ぶりで味が良く「民田茄子」と呼ばれ、庄内地方の名産品である。松尾芭蕉の名句「めずらしや山を出(い)で羽(は)の初茄子(はつなすび)」は小粒で美味しい民田茄子の漬物を詠んだものである。7月頃までは皮が薄い茄子を作り、浅塩で漬けた味が格別に旨い。8月になると実が少なくなり、皮の硬い民田茄子(みんでんなす)が採れる。「秋茄子は嫁に喰わすな」と言われるが、藤沢周平は、硬い民田茄子の風味が好きだったようである。
 
つけもの処 本長のホームページへ
つけもの処本長のホームページより
↑民田茄子
(4)「湯田川温泉」は、作品「花のあと―以登女お物語」に出てくる現存の温泉地である。古くから湯治場として知られ、山頭火などの著名人が好んで宿にこもり執筆をしている。以登は湯治に来ていて、散歩の途中で思いがけない光景を目撃した。それが復讐の切っ掛けになり、悲しい結末を迎えることになる。藤沢周平が故郷の温泉地として、こよなく愛した湯田川温泉は、孟宗汁(もうそうじる)と山菜料理が名物の湯治場である。
 
孟宗汁
鶴岡市のホームページより
↑孟宗汁
(5)「井岡寺」は、作品「紅の記憶」の中では「豪勝寺」のことである。湯田川温泉に向かう途中で、少し右に外れた道を曲がると、まもなく山城の跡なのか鬱蒼とした林の中に井岡寺がある。山門で仁王様が睨みを効かせているが、境内は静寂そのものである。願いを掛けているのか、静かに参拝をする人に出会った。
 
井岡寺
↑井岡寺
(6)「小真木(日枝)」は、作品「ただ一撃」の小真木野原野があったところである。日枝神社の鳥居の下に6番目の標柱がある。仕官を望む浪人者の試技に立合った若侍たちは、ことごとく破れ、次は老体の刈谷範兵衛に対戦相手の白羽の矢が立つ。小真木野原野でひそかに修行に励み「ただ一撃」で浪人者を倒す。戦いに挑むまでの嫁と舅の思いやりのある絆と哀れさが胸を打つ作品の舞台である。
 
↑日枝神社
(7)「内川」は、作品「蝉しぐれ」の中に出てくる「五間川」のことであり、舞台に出てくる五間川に架かる橋が「筬橋(おさんばし)」である。三雪橋の上流にあって、この橋から内川は市街地に入る。掘割の中をゆっくりと漂っているような内川の流れに、短い橋を渡しているのが筬橋である。現在は、本道から外れているので、気が付かずに渡ってしまいそうだが、古くなった短い橋と川岸に続く緑のある風景は、庄内地方らしい風情と歴史を感じさせるゾーンである。
 
内川
↑内川
(8)「総穏寺」は、作品「又蔵の火」に登場する現存のお寺である。兄の仇討ちの場所に土屋又蔵が選んだのが総穏寺である。仇敵の土屋丑蔵が、亡父の忌日に総穏寺に墓参するとの予感が的中した。黒木の総門と朱塗りの山門を抜け、本堂の左手に広がる総穏寺の墓地で死闘が行われた。不幸な果たし合いは相打ちに終わったが、総門や山門は、どんな感情を抱いて仇討ちを見ていたのだろうか、今は何事も無かったように静寂な境内がそこにあった。
 
総穏寺
↑総穏寺
(9)「大督寺」は、作品「義民が駆ける」に登場する現存のお寺である。酒井家累代の墓は、藩祖忠次を除き全て大督寺にある。200年も続いていた庄内藩に、突然国替えの沙汰が出た。長岡へ墓を掘り返して運ぶのは一大事である。だが 幕府に不服を唱えるには大きな危険が伴う。この国替えの一件は、結果として藩主と住民の絆が、大逆転を演じて不発に終わった。徳川時代の大名家は250程あったと言われているが、国替えが一度も無かったのは庄内藩だけである。時の権勢に抵抗をした歴史上の事実を基に描いたこの小説は、緊迫さと痛快さが読者を虜にしている。
 
大督寺
↑大督寺
(10)「本町二丁目(七日町)」は、作品「三屋清左衛門残日録」に出て来る花房町のことである。七日町通りの三浦屋の門柱のところに10番目の標柱がある。三屋清左衛門は、ほどよい寒さと肴で酒が旨かったという。肴は鱒の焼き魚・はたはたの湯上げ・しめじ・風呂吹き大根に茗荷(みょうが)である。赤蕪も旨いがこの茗荷も旨いと言った。茗荷は庄内地方の特産品である。
 
三浦屋
↑三浦屋
(11)「旧藩校致道館」は、作品「義民が駆ける」に登場する藩校致道館のことである。文化2年(1805年)に建てられた武家の男子が入った学校である。東北地方に残るただ一つの藩校建造物として、国の史跡に指定された貴重な文化遺産である。「授業を受けているかすかな声を除いては、建物は静まりかえっている。建物の屋根のうしろに、薄もも色に染まった雲が浮かんでいる。空気はまだ冷たいが、春の訪れを感じとった」という海坂藩ならではの風景があった。
 
旧藩校致道館
↑旧藩校致道館
(12)「鶴岡公園」は、作品「花のあとー以登女お物語」に登場する鶴ケ岡城跡の公園である。鶴ケ岡城は平城で天守閣などは無いが、お堀と緑の木々が水面に映えて美しく、水鳥の泳ぐ光景が微笑ましい城址公園である。桜の名所として知られ、市民の憩いの場所になっている。「花のあと」では、花見の季節での出会いに、ほのかな恋心が芽生えたが、封建的な武家社会では格式が邪魔をする。豪奢な花の盛りが終わり、悲しげに見える眺めに、以登は去るに忍びない気持ちになったという。悲劇は花見での出会いから始まった。
 
↑鶴岡公園
(13)「家中新町」は、作品「三の丸広場下城どき」に出て来る相生町のことである。家中新町は「三の丸」があった場所で、13番目の標柱は、菅家庭園(戊辰戦争当時の家老=菅実秀の屋敷)の入口にあった。鉄砲足軽の組屋敷が一部の町屋と混在し、その先に上士屋敷のある屋敷町になっていた。当時の面影を残す閑静な住宅地が家中新町である。
 
↑菅家
(14)「内川(五間川)」に架かる橋=「三雪橋」は、作品「蝉しぐれ」に登場する。鶴岡市街を蛇行して流れる内川の岸辺には、緑の柳や青草が生い茂り、静かに流れる内川と朱塗りの三雪橋のコントラスが庄内らしさを醸し出して美しい。橋の欄干からは遥か彼方に故郷の山「金峯山」が見える。「蝉しぐれ」の一節では、城下町を冷たい北風が吹き抜ける寒い午後が描写されているが、庄内地方には日が当たらない厳寒の冬がある。冬の鬱陶しい暗いイメージがあるのも「庄内」の特徴であるが、春は長閑な住みよい土地柄でもある。








(15)「大泉橋」は、作品「秘太刀馬の骨」に出て来る「千鳥橋」のことである。三雪橋から少し下ったところに船着場があって小さな公園がある。その船着場から川筋が大きく曲がり、大泉橋の下を川が流れて行く。大泉橋の袂にも船着場があって、常夜灯の光が夜を射す。藤沢周平の小説「秘太刀馬の骨」のクライマックスでは「五間川はちょうどそこでゆるやかに東に向きを変えているのだが、曲がり切ったところに南から北にかかる千鳥橋の北袂には、橋下の船着場を照らす常夜燈がある。三人はその光をはばかったのである。」という場面があり、神秘的な心を打つ情景描写の素晴らしさが感じられる。この「大泉橋」には、松尾芭蕉が酒田へ行く時に舟に乗った「奥の細道内川乗船地跡」の標柱がある。芭蕉が庄内藩士長山重行宅に3日間滞在し、川船に乗って内川・赤川・最上川を下り、酒田に赴いた場所でもある。大泉橋から三雪橋の間の内川(五間川)の風景は素晴らしい。「庄内」を知るには、この川岸の散策から始めたいものである。
 
三浦屋
↑大泉橋
(16)「龍覚寺」は、作品「蝉しぐれ」の中に出て来る「龍興寺」のことである。内川が大きく曲がる船着場から、少し下ったところに龍覚寺がある。比較的小さい方のお寺であろう。龍覚寺の本堂は、深々とした静けさの中に佇んでいる。大きな杉の木が門を覆い被さるように立っていて、今にも蝉が鳴き出しそうな雰囲気が漂っていた。
 
龍覚寺
↑龍覚寺
(17)「般若寺」は、「凶刃  用心棒日月抄」に登場する現存の「般若寺」のことである。龍覚寺の直ぐ近くにあるが、龍覚寺とは対照的に鶴岡市内のお寺の中では大きい方である。立派な本堂の脇に水子地蔵尊があり、広い墓地では、いつも作業をする人が忙しそうに働いている。小説では「去年の秋に城下で旅の者が横死し、その死骸が2日ほどして消失するという事件があったのを知っているか……、北濠のそばで、刀による深手を負って絶命している町人姿の旅の者が発見され、町奉行の手の者によって般若寺にはこばれた。」とある。身寄りの無い不慮の死体は、どうやら般若寺に運ばれていたらしい。
 
般若寺
↑般若寺
(18)「善寶寺」は、作品「龍を見た男」の中に登場する「瀧澤山善寶寺」のことである。竜神様のお寺として、多くの信者を有する信仰道場であり、全国から参拝者が集まる祈祷所として有名である。五重塔を拝観し、山門・本堂・龍王殿などの歴史を刻む建築物を鑑賞するのも楽しいプランである。
甥の寅蔵を海で亡くした漁師の源四郎は、女房のおりくに善寶寺参りに誘われる。「貝喰ノ池」に何かがいると感じ、やがて潮に流される船上で、龍神の助けを求める彼の前に龍は現れた。龍神堂の近くにある「貝喰みの池」には、龍では無くて「人面魚」がいる。運が良ければ「人面魚」に出会うことが出来るかも知れない。

 
善寶寺
↑善寶寺
 
 「坂本屋」がある三瀬は、鶴岡市の外れにある港町で、作品「三年目」の舞台になった。庄内藩十代藩主酒井忠器が領内を巡行し、本陣として昼食に立ち寄ったのが「坂本屋」である。その時出された献立を、文献から再現して作ったのが「献上膳」である。また、藤沢周平の世界=「海坂藩」に因んで作った献立に「海坂膳」がある。この2つの献立が坂本屋の名物料理である。
三屋清左衛門の好物「風呂吹き大根」と「シラガニ」、町奉行・佐伯熊太が食べた「赤カブ漬」のほか、「サクラマス」「エイの干物・カラゲ」「タラのドンガラ汁」「クチボソの焼き魚」「ハタハタの湯上げ」などが「海坂膳」の献立である。海坂膳の特徴は、素材の良さを生かすところにあり、藤沢文学の原点と共通した献立である。素朴さの中にある滲み出る美味しさが「海坂膳」である。藤沢周平ゆかりの地18カ所の標柱を訪ねたあとで、「海坂膳」を食べながら藤沢周平を偲び、藤沢周平の世界を語り合うのもまた楽しい。

 
周平が愛した鶴岡の悠久の味
鶴岡市「海坂藩の面影」より
↑周平が愛した鶴岡の悠久の味

 
 
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